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死んだらどうなるのか


立雲寺だよりvol9令和5年春号を発行し、鬼子母神祭のご案内とともにお檀家さんにお送りしました。




立雲寺だよりP1「死んだらどうなるのか」を掲載します。




 「死んだ後はどうなるんだろう…」死は誰も逃れられない万国共通の課題です。誰しも一度は考えたことがあることでしょう。この世には様々な死生観がありますが、実際の所は死んでみないとわかりません。


 昨年十一月、大叔母の妙子さんが亡くなった時、心にポッカリと穴が空いたように寂しかったです。妙子さんはどこに行ったのでしょうか。



 仏教に「輪廻」という言葉があります。死んだら生まれ変わり、この世に出てきたのも何かの生まれ変わりであるという解釈です。そしてこの世での行いが死後も存在し続け、それにより次の世が決まるというものです。

 仏教では僧侶の死を遷化(せんげ)といい「仏の教えを説く場所を他に移す」と説かれます。


 日蓮聖人は「死んだら私は必ずあなたを待っています。死後の旅を助けます。」と死後にお檀家さんを導くと仰っています。しかし実際は日蓮聖人も証明はできません。ではなぜそう思ったのでしょう。それは信仰、つまりお釈迦様の教えを信じたからです。信じると気持ちが安らかになります。人と人との信頼関係も同じですが、信じるものがないと色々と余計なことを考えて気持ちがぐらついてしまい、不安になります。だから人は信じるのでしょう。



 死んで終わりではない。そして我々の気持ちが故人や先祖に届くと思うと、なんだか救われる思いがします。死んだ後も故人と関係は続き、繋がっている。

 先祖供養は、これまで命を繋いできた先祖の為であり、同時に残された我々の心の安穏の為であると思います。



 昨今「自分が死んだら子供に迷惑をかけたくないので、お墓を手放したい」という声をよく聞きます。近年の核家族化に伴い距離的な問題や経済的負担、様々な理由があり、やむを得ない事情もあると思います。

 しかし供養することが、故人の為、ひいては残された方の心の支えになることを忘れてはいけません。僧侶は故人と残された方々の橋渡しであると思います。



 さて妙子さんはどこに行ったのか…結局のところわかりませんが、私は素直にお釈迦様や日蓮聖人を信じて、今もどこかでお経を唱え、我々を見守っているのだと思います。



(「立雲寺だよりvol9_令和5年春号」より)

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